July 14, 2009

棚卸し010●南木佳士

 ちょうど南木佳士が「ダイヤモンドダイスト」という作品で芥川賞を取ったときのインタビューである。それで、「週刊文春」(1989年2月9日号)なのだろう。
 南木佳士の作品を何作か読んでいて、確か、軽井沢だったと思うが、彼の勤め先の近くの宿で話を聞いた。当時、南木は佐久総合病院の内科医長で、仕事を終えてから、訪ねてくれたのではなかったか。
 受賞作は農村の病院を舞台にしたものだ。やけに死にまつわる挿話が出てきたのを覚えている。私のイメージの中では、後に、同じように芥川賞を受賞した際に、同じ「週刊文春」でインタビューした玄侑宗久と重なっているのだ。その「死」への距離感のようなものが。
 南木の話には、いくつもの「死」が出てきた。農村での農薬による自殺者、ガンによる入院患者の死者、三歳のときに亡くなった母の話などなど。
 ただ、死について語りながら、その口調はどこか軽やかでもあった。けっして軽佻なのではなく、透明な羽根の舞うがごとく、なのである。
 除草剤による自殺は意識がはっきりしたまま、なかなか死ねずに苦しむらしい。血液透析など、助けるための治療にはお金がかかるが自殺は保険がきかないので、助かっても亡くなっても大変だという話があって……。

かと思えば、冬の軽井沢で手首をちょっと切って、救急車で運ばれてくる女の子がいる……(所持品検査で)リルケの詩集なんかが入っている。警察が『先生、やっぱりリルケは危ないですね』。危ないわけないじゃない。そういうのは思いきり笑ってやりますよ。何がリルケだよって、ハハハ

 深沢七郎の『楢山節考』が好きで、ああいうように何げない文体で不気味さを出したいと語っている。深沢が佐久総合病院に入院した際、いろいろと話を聞いた。深沢曰く、「小説なんてウンコのようなもので、たまったものを出す、それだけのもん」。なかなか、そうはなれないよね、しんみり呟いていた。

「(祖母の死を知らせる)電話を受けたときに瞬間的に思ったんですが、結局思い出が語れなくなる、そのことが悲しいんですよね。共有する思い出というのは語り合うことでしか思い出せない

 実は、私はこの話を長いこと自分の頭で考えたものだと思って、いろいろな場で喋っていたのだ。いま、色褪せた切り抜きを読んで、「ああ、南木さんの言葉だったんだ」と改めて知ったのである。
 この後、20年間で私もいくつかの「死」と出会った。ここで南木が言っているように、「死」は年齢、性別、富裕などに関係なく、「風はふいに吹いてくる」ようなものだと、ほんの少し分かってきた。
 このインタビューのため、共に軽井沢の宿に泊まった文藝春秋の編集者Iも、10年前に亡くなった。最後に、彼の作った文庫本が『納棺夫日記』だったのも因縁めいているが、そこに何の意味もないことは、私もよく知っている。

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July 13, 2009

棚卸し009●谷川浩司

 若いころの自分の文章を読むと、「言いたいこと」に対して性急になり過ぎていたり、「自分」を前に出すことに気をとられすぎているのが、よく分かる。読んでいて、「もっと、息を抜いていいんだよ」と思ったりもするのだ。その緩急が、読み手の流れを作る、ということに気づくまで随分と時間が必要だったようだ。もちろん、それをマスターしているかどうかは別問題だが。
 この谷川浩司インタビューは、「週刊文春」の「行くカネ来るカネ」という連載ページで、この時期は月に一度ぐらいはこのページを担当していたように思う(号数がメモしてないが、1988年12月中なのは確かだ)。
 神戸まで行き、ホテルでのインタビューだった。羽田で待ち合わせた編集者が遅れたため、一人で飛行機に乗り、ホテルまで赴いたのを覚えている。

 文章中にも出てくるが、現れた谷川の百七十八センチという身長に、一瞬戸惑ったものだ。テレビなどで見た谷川は、和服姿のことが多かったためか、小柄だというイメージがあったのだ。
 また、エレベーター前で雑談しているときに、つい「将棋を打つ」と言ったところ「将棋は指すんです」と訂正されて、赤っ恥をかいたのも、よく覚えている。
 ただ、話していても、落ち着いた人ではあったが怜悧な印象は受けなかった。いまだと「オタク」に分類されてしまうような、そうした暗さも見受けられず、同世代の気安さからか、いろいろと好き勝手を話し、尋ねたようだ。

最も強くなるのは高校生ぐらいで、極端にいえば寝て起きたら強くなってるという感じでした。(略)いま考えると、あのころもう少し勉強しておけばよかった、ハハハ

 朝起きると背が伸びている、と同じように「強くなっている」のは凄いと思ったのだ。常に、そういう自分の「強さ」を測る場に身を置きつづけていたということでもある。
 正気をはじめたころは、たかだか40枚の駒を81の枡目の中で動かすだけの簡単なゲームと考えていたのだが、強くなるにつれて「わからなくなる」と言っていた。

強くなるということは、自分の『弱さ』がわかってくることじゃないかという気がします

 そういうことなのだろうな、きっと。

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July 06, 2009

サリンジャー

 アメリカのニューヨーク連邦地裁が、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の続編としてスウェーデン人が書いた『60年後 ライ麦畑を通り抜け』のアメリカ国内での出版差し止めを命じた、という記事を見ました。
 提訴していたのはサリンジャー本人で、その理由は「著作権侵害」。続編の著者側は「パロディーであって、著作権侵害には当たらない」と反論していたが、容れられなかったようである。
 まず、サリンジャー、1919年生まれだから、もう90歳ということにちょっと驚きました。そして、相変わらずの頑迷さ、おそるべしと言えますね。
 ずっと前、『サリンジャーをつかまえて』(イアン・ハミルトン著/海保真夫訳)という本の書評を書いたことがありますが、サリンジャーの、この評伝への徹底したケチのつけかたは異常を通り越して、ぐるっと一回転して普通にさえ見えてしまいました。告訴、出版差し止め要求、最後は部分的削除によって出版できたのではなかったでしょうか。その裏話部分が、私にはやけに面白かったけど。
 ただ、別れた奥さんや何やらの「私」部分の露出に文句をつけるのは分からないではありませんが、「取材OK」という人のコメントにまでイチャモンはつけられないのでは、という気はしました。取材者と被取材者、公共性と非公共性という、けっこう長く論議されている問題ではありますけど。
 で、このスウェーデン人が書いた続編というのはどのような作品なのでしょうかね。こうした判例によって、もしも「パロディ」やら「パスティーシュ」まで作れなくなるとしたなら、ちと、つまらない気はしますが。

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July 05, 2009

棚卸し008●谷川俊太郎

 ある時期、非常に「詩人」に憧れていたことがある。学生時代のいっときだけど。
 何人かの好きな詩人の作品を読めば読むほど「ああ、自分には到底無理だ」と思えてしまっていた。ただ、谷川俊太郎という人の詩は、正直に言ってしまうと、本当に最後の最後まで「もしかしたら、こんな詩なら書けるかも」と思わせられていたのだ。ありふれた語彙、心地良い調子、すとんと胸に落ちてくる分かりやすさ、そうした要素が「オレでも」という気にさせたのだろう。
 もちろん、そんなことがあるはずもない。ついに最後になって、その簡単そうに見える部分こそが深く、難解だと分かってくるのである。大きな勘違いだったと理解したのである。
 いつか機会があれば、こんな勘違いをさせる原因を作った谷川俊太郎に話を聞きたいと願っていた。
 そして、『詩を贈ろうとすることは』という本の著者インタビューで実現した(「週刊プレイボーイ」1991年7月9日号)。
 この記事で、私は告白しているが、その透明感と闊達さだけでなく、やっとのことで闇の部分が見えてきたようなのである。これもまた年齢のせいか。
 谷川は、このとき60歳である。自宅近くの喫茶店に現れた谷川は、半ズボンにYシャツ姿。この飄々とした佇まいがまたカッコイイのである。

昔の日本の詩人というのは、年をとると文語で書くとかね。日本回帰になっていく傾向がチラホラあるんです。そういうふうにはなりたくなくて、年とって派手になるのが理想なんですよ。はちゃめちゃになる、とかね

 自ら「サービス精神が旺盛」というだけあって、谷川の詩集が「読んで面白い」のは確かなのだ。
 しかし、のそ面白さには彼の実生活上の「ごちゃごちゃ」、たとえば両親の死やら何度かの離婚や再婚、同棲というようなことが影響しているのである。
 実は、このインタビューの少し前に、佐野洋子さんが絵を描いた『女に』というエロチックな詩集を出している。その話も聞きたかった。
 谷川は自ら「不足や不幸から書き始めるのではなく、充足から書き始めるタイプ」という。このときは「え、そうなの?」と思っていたのだが、この後の「不足しているときもそれを不足とは感じないみたい」という言葉とともに、後になってやっと、そのことを半分ほど理解できた。それは「不足」を反転させる術ということなのだろう。逆に言えば、長いこと「充足」が反転してきたからでもある。

 とにかく「詩人として食べていく」ということに、これほど真摯であって詩人はいないのだ。このことは、もっと注目していいし、かなり重要なことだと思えてならないのだ。

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July 04, 2009

棚卸し007●小宮悦子

 長いことルポライターをやっているが、実のところ、女性を扱った人物ルポは驚くほど少ない。これは、私だけの傾向ではなさそうだが、もっと意図的に異性の話を聞くようにすべきだろうな。異性であるから聞ける話というのもあるはずだから。
 小宮悦子を取材した記事(「週刊現代」)1986年11月15日号は、当時、「ニュースステーション」がはじまって1年を経て、やっと人気が安定したころのものである。編集部の企画で、どういう経緯か、私のところに依頼が来た。インタビューは1回だけで、あとは知人や同僚、上司への取材という形である。
 すでに、このとき結婚していて、旦那の(いまでは、元旦那か)コメントも取ったっけ。
 記事中に「これほどの逸材とは思いもよりませんでした……」云々という久米宏のコメントも出てくるが、これは事務所に質問を提出して、確か、回答だけが送ってきたはずである。この2年後に、「近鉄vsロッテ最終戦」という、130試合目でパリーグの優勝が決まる、というドラマチックな試合があり、それを「ニュースステーション」が番組内容を変更して中継した。私は、その数日後から、近鉄の選手、ロッテの選手、あるいは試合の裏方やテレビ中継の関係者に話を聞いて回って、一編のルポルタージュを仕上げたことがある。そのときも、久米宏に取材を申し込み、やはり質問への回答を受け取ったのだ。ただ、このときは、どうも質問と答との内容にズレがあり、記事で使用できなかったが。

ウチの高校には美里美寿々さんを始め三人も女性アナの先輩がいるんです。フツーの学校なのになぜでしょうね。まあ、大学に入ってもホントに地味でマジメな学生でしたから

 気さくな話しっぷりで、どんな質問にも快活に答えてくれるのだが、私には、いまひとつ彼女の面白味が伝わらなかった。ただ、そんな「地味でマジメな」自分に対する分析はしっかりできているようだった。
 この後にも離婚やら再婚やらとワイドショーに取り上げられることはあったものの、いわゆる「スキャンダル」にならなかったのは、そうした「マジメ」さのためなのだろう。
 女子アナ人気の先駆でありながら、頑なにタレント化していかないあたりが、そう、いまなら私も面白いと感じる。表面を引っ掻いただけに終わってしまったのは、こちらも、まだまだ若かったということなのだろう。

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July 03, 2009

棚卸し006●長谷川和彦

 これは記事の切り抜きだけが残っていて、どんな雑誌かは分からない(「oh'gu:」1984年)。「スコラ」のジュニア版とあるから、別冊みたいなものなのだろう。目次を見ると、グラビアに「森尾由美」「原田知世」「中森明菜」の名がある。他には「岡田有希子」「安田成美」なんて名も出ているな。「スコラ」ほどエッチではない雑誌を狙ったような気もする。
 で、私の書いた記事は、なぜか「永遠の不良少年たちがキミたちにおくる熱きメッセージ」というもの。登場するのは、長谷川和彦、岩城滉一、桑名正博という30代の問題多き男たちである。
 よく分からない企画だったけど、学校を出てすぐの時だったから、必死でこなした覚えがある。確か、長谷川和彦だけが私の人選だったのではなかったかな。大慌てで3人の話を聞いて回り、最後は編集部に泊まり込みで原稿を書いたのだった。

 記事を読み返すと、まだまだ、映画監督・長谷川和彦に期待していたようである。熱い思いを語ってもらっている。インタビューの中で「2作目以降5年間も映画を撮っていない」と語っているけど、さらに25年経っているわけだから……もう30年か!
 おまけに、そうそう、このときは「去年は半年間もムショ暮ししてた」と言ってるように、確か交通刑務所に入っていたはず。
 彼の住まいの近くにある寿司屋で、酒を飲みながらのインタビューだった。写真の背景に、壁に貼られたメニューがあるのがオカシイ。
 とにかく、契約助監督の時代、いかに監督をやりたかったか、という話である。何度もケンカをしてしまい、なかなか作品を撮れなかったという。
 ただ、彼の才能に注目した人たちがいて、彼の個性を面白がってくれたりもした。映画界が斜陽化しても、まだ、古き良き映画の黄金期を知る人たちが大勢いたためでもある。

何も若い時に、やりたい事を抑える必要はないんだ。試行錯誤の末、見つけたことならどっぷりつかってもいいんじゃないか。たとえ周りから非難されても
 そう話せる幸せな時代でもあったのだ。

 プロフィールに「来年公開をめどに、次回作が始動中」とある。そして、最後に「不良であろうとなかろうと、きっちりオトシマエさえつければいいんだよ」と啖呵を切っているが、彼じしんのオトシマエはまだつけられていない。

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棚卸し005●田村隆一

 夏の暑い日、鎌倉のご自宅にお邪魔した。
 田村隆一といえば、吉本隆明のいう「数少ないプロの詩人」の一人である。こちらは緊張の面持ち。が、出てきた田村はパジャマ姿。ウィスキー片手に、勝手な気ままに話をしてくれた(「DODA」1995年8月23日号)。
 のっけから「なんだ女性のインタビュアーじゃないのか」といわれ、奥さんが「なに、いってんの」とたしなめる。暑いからクーラーつけましょうかと奥さんがいってくれると、「女性じゃないから、つけなくていいよ」だって。
 すぐさま、「あ、謝礼くれるそうだから、やっぱりつけて差し上げて」。
 とにかく韜晦と諧謔を駆使して、ふざけているかと思えば、とたんに生真面目、昔話かと思えば、現代の風俗の話題になったりする。時おり眼光鋭き視線をくれるのだが、それもすぐに消えてしまう。まったく掴みどころのない人だ。
 ただ、言葉に対する思いの深さの断片のようなものは聞き出せた気はする。

僕たち人間の内部には『人間』がいないんだ、残念ながら。猫とか犬とか鳥を見ていると、内部にちゃんと猫や犬がいるんだわ。人間だけ、内部ががらん洞なんだよ。在るのは言葉だけなんだ

 この時点で田村は72歳。新しい詩集(『狐の手袋』)を出したばかりのときだった。
 まだまだ元気そうですね、と聞くと、「年寄りになるとね、新しい遠近法が生まれてくるんだな。対象との距離の取り方というか。それは詩にも表れるでしょう」と、なかなか含蓄のある話をしてくれる。ただ、すかさず「でも、とにかく男のホルモンの方が涸れやすいね」と身をかわすから、困ったもんだ。

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July 01, 2009

棚卸し004●藤沢周平

 週刊プレイボーイの著者インタビューは、けっこう長くやっていた。とりあえず新刊であれば、こちらの興味のある人物を選べたので、かなり趣味に走ったきらいがある。見開き2頁だけの記事だが、ときには2時間ほども話を聞きつづけることもあった。
 藤沢周平には、3度ほどインタビューを申し込み、このときにやっと受けてもらったのだった(「週刊プレイボーイ」1992年9月22日号)。
 読み返してみると、何だか一ファンの能書きでしかない。
 最後には《とにもかくにも、ごたくを並べる前にまずは藤沢周平を読め》とまで言い切っている。読者層など、まったく無視しているとしか思えない。

 取り上げているのは藤沢周平全集である。それじたい、著者インタビューとしては異色だろう。ちょうど、この時期に刊行がはじまったのである。インタビュー時に第一巻を持参し、サインをしてもらった。デビュー作「暝い海」の入っている巻で、初期作品はまったく暗いトーンの作品ばかりである。
初期のものは生真面目ですね。遊びというか、ある幅をもって冒険しながら書いたほうが、たとえ破綻があってもおもしろいものができるようです
 時代小説であっても、読んでいるのは現在を生きる私たちである。当然、そこには思いのつながりがあるはずなのだ。
気持ちが今とつながっていないと、物語がいくらおもしろくても読まれないような気がしますね。また、今とつながる自分の情念みたいなものが枯れてしまったら書けなくなるんじゃないでしょうか

 もちろん、出来不出来はあるものの、藤沢作品に魅せられた人たちは、きっとその瑕瑾多い作品でも好きなはずである。いくつも魅力はあるものの、敢えて一つだけ挙げると、感情の正負の動きに対して、直線的に、一言で表現してしまう剛直さである。繊細にして大胆なのだ。剛でありながら、内側は柔であるという、非常に希有な文章だろう。
 記事が雑誌に掲載された後、お礼が記された葉書を受け取った。これもまた、大事な宝物としてしまってある。

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June 30, 2009

棚卸し003●荒木経惟

 自分で書いたものをきちっと整理する習慣がない。雑誌の該当頁を破り取って大きな紙袋に入れておくだけだ。
 たまに、古い記事が必要になって探そうとするのだが、なかなか見つからない。それで、最近では記事でなく、元原稿のフロッピーのほうで確認するようになった。ただ、印刷用のゲラで手を入れることが多いので、微妙に文章が変わっているのだが。
 この棚卸しも、年代、テーマともにアトランダムなのはそのためである。できるだけ古い順にしようとは心がけているのだけど。

 荒木経惟のインタビュー(「AERA」1991年6月11号)は、都合1ヶ月近くにわたって密着して行なった。とにかく一緒に車に乗り込んでは、撮影現場に赴き、その後にスタッフやら女優やらと飲みにいくのにも付き合い、喧噪の中で断片的な言葉を拾っていったのだ。荒木は、いつもさりげなく飲み代を支払ってしまっていて、あるとき、それに気づいた私は、それより早くに払うように努めた。この1ヶ月の飲み代は、驚くほどの額になってしまったっけ。
 この期間は、実に楽しかったし、随分といろんなことを学んだ。たとえば、言葉の裏にあるものの存在。インタビューというのは言葉を重ねていくことでしか理解できないと思っていたのだが、そのときの空気、表情、語調のほうが多くを語る場合がある。そして、それを敢えて文章にしていってもいいのだと教わった。

「(荒木の生まれた東京の)三ノ輪のあたりは、本当にいろんな連中がいたよ。吉原も近いし、芸術なんかとは程遠い生活だったけど、今から思えばあれこそが芸術だったような気がする。毎日のように喧嘩があって、貧乏があって、女がいて、男がいて……
 このとき、奥さんの陽子さんが亡くなったすぐ後だったこともあり、荒木の写真には妙に「死」り色合いが強いように感じた。空だけを撮った写真集などが、そうだ。
 もしかすると「死への憧憬でしょうか」などと尋ね、一笑に付されてしまったけど。実際、この記事から18年を経ても、相変わらず荒木は意気軒昂そうだし、こちらの勝手な思い込みだったようだ。

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June 29, 2009

棚卸し002●蓑田浩二

 いまでも取材に赴くときは緊張感に身を震わせるが、ルポライターを名乗りはじめた25年ほど前は、とにかく緊張しまくっていた。
 初めの数年間は、聞くべき内容をがっちり決めていた。ところが、どうもそうしたインタビュー・メモに縛られると、あまり面白い話を聞くことができない。紆余曲折の末、いつしか、作ったメモは見ないで取材するようになっていった。
 プロ野球選手の蓑田浩二のインタビューは、まだ、聞くべきことをかっちりと決め、メモを片手に話を聞いていた時代のものである。
「啓発ヒント」(119号)という雑誌だが、確か、発行元は学研で、市販されていない、直販形式の雑誌ではなかったか。
 取材をしたのは、1985年の1月だったと思う。自主トレを兼ねて滞在していた和歌山の南紀白浜まで出かけた。温泉地もシーズンオフで、けっこう大きな旅館が格安料金で泊めてくれたのを覚えている。
 阪急ブレーブスは、いまきもう存在しない。この前年に蓑田は3割30本30盗塁を記録していた。実に攻走守のバランスのとれた選手だったのだ。
 会ってみると、ノンプロを経由して24歳でプロ入りしたせいか(すでに子どももいた)、社会人としての常識をわきまえた人であった。とくべつ、奇をてらった話をするわけでもなく、淡々と、そして質問には的確に答えてくれた。

最初のころは、守備固めで出て、とんでもないミスもしてるんですよ。打球に追いついたはいいけど、ポロッとやったり、後退していって外野の塀にぶつかってヒットにしたりとかね。とくにクッションボールの扱いは下手でしたね
 平凡な選手だと分析し、そこで何が足りないかを見極め、重点的にトレーニングする、という姿勢が大切なのだろう。
 しかし、阪急時代には地味ながらも好選手として知られていたが、辞めるころの姿が記憶にないのはどうしてだろう。

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